戦後80年
青春時代は戦争ばかり
子や孫にこんな思いさせたくない
沖縄県那覇市 宮城苗子(97)
今年は戦後80年。第二次世界大戦末期1945(昭和20)年3月26日から始まった米軍と日本軍との間で行われた沖縄戦は、沖縄本島で激化し6月23日に終了しました。命を奪われた多くが民間人で、その数は20万人ともいわれています。当時の経験を当事者が語ります。
死ななかったのは
運が良かったから
私は、昭和2年、那覇市首里で生まれました。きょうだいは7人でした。男3人、女4人で私は四女です。
米軍が上陸してきた昭和20年の4月ごろは戦争も相当激しくなっており、私たち家族は裏山に掘った防空壕に避難していました。
私たちの家族は弾に当たって死ぬことはありませんでしたが、それはただ運が良かったというだけです。何度も爆風で吹き飛ばされ、子どもたちを探し当てては「あー、まだ生きていた」と思い、次の場所へ移動することの繰り返しでした。
長男はブーゲンビル島の戦い(パプアニューギニア)で戦死しました。ネズミやトカゲを争うように取って食べ、最後は飢え死にだったそうです。父親がそのことをつらそうに話していたのを忘れることができません。夫の両親も戦争で亡くなり遺骨もありません。
2か月間の避難生活では、目の前でどんどん人が死んでいくので、自分が死ぬとか怖いとかの気持ちはありませんでした。どの防空壕も避難民でいっぱいで、私たちの居場所はありませんでした。ひめゆり学徒隊がいたという壕にも行きましたがすでに日本兵が入っていました。
6月19日に糸満で捕虜になりました。父親が「米兵は女とみたら誰でも強姦するから」と、女の人たちの三つ編みをほどかせ顔をさらに汚し頭がおかしい振りをさせました。
三女は栄養失調で死亡
10月9日に三女が亡くなりました。栄養失調でした。埋葬しましたが毎日何十人という人たちが死んでいるので、もし私たちが生き延びたら迎えにいけるように埋葬した場所に目印をつけておきました。そのおかげで翌年の秋ごろに遺骨を掘り出し、墓に入れることができました。
このように、私の青春時代は戦争ばかりでした。子どもや孫にこんな思いはさせたくありません。戦争は絶対にいやです。
ひめゆりの塔
1945年、沖縄戦に看護要員として動員され命を落とした沖縄師範学校女子部と沖縄県第一高等女学校の生徒と教職員らを追悼する慰霊碑。「ひめゆり学徒隊」が名称の由来。戦争末期、日本軍は本土決戦に備えて時間を稼ぐため沖縄で持久戦を展開しました。そして、兵力不足を補うために「沖縄県民根こそぎ動員」を行いました。10代の生徒まで動員されたために、県民の4人に1人が命を落としました。また、米軍に投降して捕虜になることは固く禁じられていたので、手榴弾で自死する悲劇も起きたのです。今年5月自民党の西田昌司参院議員が、ひめゆりの塔に併設された平和記念資料館の展示を「歴史の書き換え」などと発言。県民の強い批判の声が上がっています。
(2025年7月27日号「守る新聞」)